夢ふくらまそう!  愛媛県議会議員 ふくら浩一の活動報告  ~大福日記~

大福日記No.36  パイレーツ・オブ・ムラカミ その5
水軍の話はこの地方の文化として知っておいても損はないと思います。
ただ、細かい事柄を全て話しているとキリがないので、
今日は水軍と我が一族のつながりをお話しましょう。
文献や実際の墓・地名などがいくつか残っているので、
一応、信憑性はあると思っております。退屈でなければ読んでください。

「海賊大将軍」と名乗った村上水軍の総大将、村上義弘のあと、
能島・因島・来島の三家に分家したことはこれまで述べてきました。
その因島村上一族に「村上吉親」という人物がおりました。
彼は因島村上水軍の主城、青影城の城主であり、また因島村上氏の
惣領、村上朝国の第一家老でした。

天正13年(1585年)から豊臣秀吉が「四国征伐」に乗り出します。
村上水軍の力を充分知っており、そして恐れていた秀吉は、徹底的に
村上一族の壊滅、あるいは取り込むように力を注ぎました。
かなり秀吉も手を焼いたようですが、何万もの大軍で攻められては
さすがの村上一族もかないませんでした。
残党が再び結束し、新勢力となるのを恐れ、秀吉は天正16年(1588年)、
「海賊禁止令」を出して取り締まりました。
ここで事実上、村上水軍は独立体ではなくなってしまいました。

青影城主、村上吉親は天正15年(1587年)、秀吉の弾圧により、
命を狙われておりました。

戦って潔く戦死するか、もしくは一時身を隠し、再び一族結束して蜂起するか…
彼は後者を選びました。

弓削の佐島(現在の越智郡上島町弓削)に身を隠し、ただひたすらに耐え、
時の来るのを待つつもりでおりました。
彼の誤算は「海賊禁止令」が交付されたことでしょう。
かつての名を名乗ることも許されず、蜂起することもできない…
彼は野に下っていきました。
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彼が身を隠したのは、弓削の佐島の「福羅」というところです。
いまも現存しており、なんと古墳!まであります。
「福良」と記されている地図や文献もあります。

しかし、村上姓では秀吉の追手に付け狙われます。
そこで、彼はこの「福羅」の地名から、「福羅文左ェ門」と名乗りました。
その後、明暦元年(1655年)彼の子孫 「福羅弥三右ェ門(やざえもん)」が
能島の隣にある「鵜島」に入植し、現在に至っているのであります。

弥三右ェ門さんの墓は今も鵜島にあり、「元禄十六癸未九月十九日」、
「福良弥三右ェ門」とあります。
「福羅」が「福良」となっているのはいろんな説があって、
・墓をつくった時、佐島の福羅地域が「福良」の字を使っていた
・水軍であったことを隠すために、念のため再び姓を一時的に変えた
・「羅」の字を彫る技術が墓石職人になかった  などなど…

良くわかりませんが、少なくとも文左ェ門さんから弥三右ェ門さんの流れは
かなり信憑性が高く、そして弥三右ェ門さん以降は、明確に現代の
我ら福羅一族に行き着くのであります。

福羅文左ェ門、すなわち村上吉親は因島村上氏の青影城主でありました。
我々福羅氏が因島村上氏であるというのは、この村上吉親の流れであります。

かつて村上水軍といえば、「暴虐の限りをつくしたならず者の海賊」のような
イメージがあったように思います。
歴史は権力者に都合のいいように変えられていきます。
実際はそうではなかった、ということを皆さんにご理解いただきたいのです。
(過去ログの「その1~その4」をご覧ください。)

瀬戸内海の村上水軍は、中世における日本の代表的海軍でありました。
ただ、制海権があまりにも強大であったため、海賊禁止令と鎖国により、
徹底的にイメージを変えられ、歴史から抹殺されてしまいました。
正しい歴史を知っていただき、認識を深めていただければ幸いです。

水軍の伝統と精神を受け継ぎ、これからも頑張っていきます。

by fukura51 | 2008-01-08 16:37 | 村上水軍を語る
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