夢ふくらまそう!  愛媛県議会議員 ふくら浩一の活動報告  ~大福日記~

カテゴリ:村上水軍を語る( 5 )
大福日記No.31  パイレーツ・オブ・ムラカミ その1
少し出張などがあり、お休みしましたが、またブログ更新再開であります。
皆さんは年明けからどれくらいお休みできましたか?
私は新年から、新年会やらあいさつ回りやら地元の世話やら
何かと忙しい毎日でした。重ね重ね、本年も宜しくお願いいたします。

今日の愛媛新聞に載っておりましたが、宮窪町の村上水軍博物館で
「村上家に伝わる道具と衣服」なる企画展が開かれているとの事です。
興味のある方は是非行ってみてください。

村上水軍といえば、我がご先祖様であります。
単に「海賊」としか思っていない方々も多いと思います。
あまりご存じない方々のために、この機会にご説明しましょう。

瀬戸内の水軍村上一族は、伊予の守護職河野家の庇護を受けており、
南北朝時代に活躍した村上義弘は、
「海賊方の棟梁にして河野十八家大将の随一」といわれ、
河野氏の常備水軍的な側面をもっていました。

簡単に言えば一応、河野家のナンバーワン武将だったんですね。
しかし、必ずしも全面的に河野氏に属した水軍という単純な存在ではなく、
独自のルールに則って行動していたようであります。

瀬戸内を舞台として村上水軍三家、いわゆる能島・来島・因島水軍は、
官物や官人の輸送警固、難路支援、曳船活動など、多岐にわたった
活動をしており、これらは領主の管理を離れた自主的なものであって、
領地支配に属さない全く独自な行動規範を築き上げておりました。

戦闘行為以外の彼らのこういった活動は、水軍というよりも俗に言う
「海賊衆」としてのものでした。
芸予難海路をおさえて、その交通支援組織として活動した村上三家は
河野氏の水軍という性格と、海域支配集団としての海賊衆という二面性を
もっていたのです。

通行船から「帆別銭」(通行料)をとり、海上での水先案内人を務め、
村上水軍の「のぼり」を渡して海上安全も保障しました。
つまり略奪・強盗をはたらく「ならず者」、いわゆる本当の「海賊」たちを
取り締まっていたのであって、彼ら村上水軍がいたからこそ安心して
官人・商人は航海ができたのであります。

彼ら水軍が軍船を建造し、兵を養う財源はこの通行税でありました。
この通行税を徴収していたことを略奪というならば、陸上の大名たちが
年貢を取っていたことも略奪ということになるでしょう。

村上水軍は次第に組織化され、あるいは武士団として幾多の合戦にも
参加して歴史を動かす原動力となっていきます。

まだ続きますが、長すぎるのでまた明日以降にお話しましょう。

by fukura51 | 2008-01-14 22:50 | 村上水軍を語る
大福日記No.32  パイレーツ・オブ・ムラカミ その2
昨日から、村上水軍の話を歴史学者のように書き連ねておりますが、
特に勉強したわけではなく、我々一族は暗記している事項であります。
退屈でなければ読んでみてください。

昨日、村上水軍が能島・来島・因島の三家に分かれている話をしました。
私、福羅浩一は因島村上一族であります。
今日は因島村上氏についてお話しましょう。

村上氏の系図によると、南北朝の頃、旧越智郡の大島に城を築いて
宮方として戦った「村上義弘」という人物がおりました。
彼以前を村上水軍の前期、彼以降を後期として考えられております。
義弘の孫、義顕のとき三人の子がそれぞれ分家独立しました。

長男の雅房が能島、次男の吉豊が因島、三男の吉房が来島に
城を構えました。それぞれが村上姓を名乗り、この三氏を総称して
三島村上水軍と言われるようになったのであります。

この三島村上水軍が最も活躍したのは、毛利元就に与して
陶晴賢を破った厳島海戦や、織田信長が石山本願寺を攻めた時、
毛利が支援した本願寺衆を助けるため、千艘の大船団で織田軍を
撃破して、見事に兵糧を石山へ送り込んだことであります。

因島村上氏の祖、村上吉豊は、因島に主城「青影城」を建立します。
その後、因島村上氏は11万4500石を領し、領主は200年以上も
続きました。最盛期は六代目、吉充の頃と言われております。

吉豊から10代くらい後、「村上吉親」という人物が出てきます。
因島村上領主、村上朝国の第一家老で青影城の城主であります。
2,169石3斗3合を領した軍奉行であり、30余隊の騎馬隊などを
率いるとともに、4隊の船奉行を統括しておりました。

このお方が、我が一族の正真正銘?のご先祖様だと思われます。
なぜなら、彼が始めて「福羅」姓を名乗ったとされているからです。

その経緯など、また明日以降のお楽しみということで…

by fukura51 | 2008-01-11 19:23 | 村上水軍を語る
大福日記No.33  パイレーツ・オブ・ムラカミ その3
皆さん、「パイレーツ・オブ・カリビアン」という映画は知っていますか?
その主演俳優のジョニー・デップ氏が来日しているようですね。
演技力はもちろん、目力(めぢから)のあるすばらしい俳優だと思います。
現在、人気No.1のようで、新作映画も近々公開されるようです。
興味のある方はご覧になってはいかがでしょうか?

昨日は因島村上水軍についてお話しました。
三島村上水軍のその後などについて今日はお話しましょう。

時は天正13年(1585年)、豊臣秀吉が四国征伐に乗り出した頃から、
海の大名として繁栄し、「海賊大将軍」と恐れられた
村上水軍の落日が始まりました。
強大な制海権を持っている上に、織田信長!が擁する九鬼水軍を
コテンパンに叩きのめしたり(再戦した時は鉄甲船を造られて完敗でしたが)
独自のルールで行動し、権力にこびへつらわない村上水軍を
時の権力者は放っておいてはくれませんでした。

三島村上一族の惣領ともいうべき能島村上氏は秀吉から目の仇とされて
勢力を失墜していきます。
天正16年(1588年)、「海賊禁止令」が発せられ、因島村上氏は
海上特権をすべて奪われましたが、能島村上氏はそれだけではなく、
瀬戸内海から追放されてしまいました。
しかし、因島村上氏は毛利氏配下の小早川隆景に属して因島・向島を
領有していたため、その後も勢力を維持していたようです。
 
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが起こり、毛利氏は西軍に味方しました。
関ヶ原の戦いは西軍の敗北となり、毛利氏は長門・周防(山口県)の
二国以外の領地はすべて没収処分となりました。
このため因島村上氏は、備後から退去せざるをえず、毛利氏に従って
長門に移住していったようです。

その後、因島村上氏の領地は削減、家臣たちは四散したことから、
領地を返上して因島に帰り、毛利氏の船手組番頭となったそうです。

ざっと水軍の歴史を振り返ってみました。
また明日以降、お話しましょう。

by fukura51 | 2008-01-10 19:36 | 村上水軍を語る
大福日記No.34  パイレーツ・オブ・ムラカミ その4
まちづくりを考える時、その歴史的・文化的背景をしっかりとふまえ、
住民にそれらを理解していただくこと、そしてその「まち」に住んでいることを
誇りに思ってもらえる様にしなければなりません。

いかに近代化が進もうとも、我々が守っていくべき「伝統」があります。
私たち30代以下の世代がしっかりと踏襲し、後世に伝えていくことは
大切なことでありましょう。
今の日本は経済的なものばかりを追い求めているような気がします。
確かにお金は大事ですが、もっと大事なものもあると思います。

村上水軍のことは少し理解してもらえましたか?
個々の事柄について述べていたら、「その1000」くらいまでいきそうな
勢いであります。
文章だけではイメージが湧かないと思いますので、今日は画像を紹介しながら
お話しましょう。


c0154895_9575561.jpg左が因島村上氏の印であります。
この印を船の帆やのぼりや陣羽織などに染め抜き、瀬戸内海を疾走しておりました。
この印を見た「ならず者」たちは恐れおののき、また「商人」たちは首をすくめて通行料である、帆別銭(ほべちせん)を支払いました。



c0154895_10133520.jpg彼らを怒らせたら、こんな船で
襲ってくるんですね~!
もっとも、戦闘集団の船は小早船(こはやせん)というもっと小さい小回りの利く船でした。
もちろん本当の武将でしたから、
理由なく略奪したり戦闘をしていたようなわけではありません。


また彼らは戦闘ばかりしていたのではなく、海外に渡り貿易も行っていました。
外国の書籍や商品を日本に持ち帰り、文化の向上に大きく貢献しています。
商業利益があれば、中国・朝鮮半島はもちろん、ベトナム・インドネシア海域、
インド洋までも航海していたようです。

我が地元の今治地域に海運業者が多いのは、やはり水軍の流れでしょう。
もちろん戦闘はしておりませんが…

c0154895_1054855.jpg左は村上水軍の総本山「能島」です。
干満ごとにまるで谷間の渓流のような勢いで潮が流れる宮窪の海の真ん中で、島ごと海城となっていました。
四周が城の石垣のように切り立ち、その上に居館や武器庫が造られておりました。
まわりの岩礁には桟橋や船がかりの柱穴跡が沖に向けて並んでいます。
最盛期の惣領、村上武吉に会い、この場所を見たイエズス会宣教師ルイス・フロイスの『日本史』に、「航海者が最も恐れるのは
能島殿」と書かれるほどの勢力でした。

彼らは「海賊衆」と呼ばれ、恐れられていましたが、これは中世において
「水軍」という呼び名が無かったからであって、決してならず者で略奪をしていた
「海盗」のような集団ではありませんでした。

キリが無いのでまた明日以降にしましょう。

by fukura51 | 2008-01-09 12:49 | 村上水軍を語る
大福日記No.36  パイレーツ・オブ・ムラカミ その5
水軍の話はこの地方の文化として知っておいても損はないと思います。
ただ、細かい事柄を全て話しているとキリがないので、
今日は水軍と我が一族のつながりをお話しましょう。
文献や実際の墓・地名などがいくつか残っているので、
一応、信憑性はあると思っております。退屈でなければ読んでください。

「海賊大将軍」と名乗った村上水軍の総大将、村上義弘のあと、
能島・因島・来島の三家に分家したことはこれまで述べてきました。
その因島村上一族に「村上吉親」という人物がおりました。
彼は因島村上水軍の主城、青影城の城主であり、また因島村上氏の
惣領、村上朝国の第一家老でした。

天正13年(1585年)から豊臣秀吉が「四国征伐」に乗り出します。
村上水軍の力を充分知っており、そして恐れていた秀吉は、徹底的に
村上一族の壊滅、あるいは取り込むように力を注ぎました。
かなり秀吉も手を焼いたようですが、何万もの大軍で攻められては
さすがの村上一族もかないませんでした。
残党が再び結束し、新勢力となるのを恐れ、秀吉は天正16年(1588年)、
「海賊禁止令」を出して取り締まりました。
ここで事実上、村上水軍は独立体ではなくなってしまいました。

青影城主、村上吉親は天正15年(1587年)、秀吉の弾圧により、
命を狙われておりました。

戦って潔く戦死するか、もしくは一時身を隠し、再び一族結束して蜂起するか…
彼は後者を選びました。

弓削の佐島(現在の越智郡上島町弓削)に身を隠し、ただひたすらに耐え、
時の来るのを待つつもりでおりました。
彼の誤算は「海賊禁止令」が交付されたことでしょう。
かつての名を名乗ることも許されず、蜂起することもできない…
彼は野に下っていきました。
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彼が身を隠したのは、弓削の佐島の「福羅」というところです。
いまも現存しており、なんと古墳!まであります。
「福良」と記されている地図や文献もあります。

しかし、村上姓では秀吉の追手に付け狙われます。
そこで、彼はこの「福羅」の地名から、「福羅文左ェ門」と名乗りました。
その後、明暦元年(1655年)彼の子孫 「福羅弥三右ェ門(やざえもん)」が
能島の隣にある「鵜島」に入植し、現在に至っているのであります。

弥三右ェ門さんの墓は今も鵜島にあり、「元禄十六癸未九月十九日」、
「福良弥三右ェ門」とあります。
「福羅」が「福良」となっているのはいろんな説があって、
・墓をつくった時、佐島の福羅地域が「福良」の字を使っていた
・水軍であったことを隠すために、念のため再び姓を一時的に変えた
・「羅」の字を彫る技術が墓石職人になかった  などなど…

良くわかりませんが、少なくとも文左ェ門さんから弥三右ェ門さんの流れは
かなり信憑性が高く、そして弥三右ェ門さん以降は、明確に現代の
我ら福羅一族に行き着くのであります。

福羅文左ェ門、すなわち村上吉親は因島村上氏の青影城主でありました。
我々福羅氏が因島村上氏であるというのは、この村上吉親の流れであります。

かつて村上水軍といえば、「暴虐の限りをつくしたならず者の海賊」のような
イメージがあったように思います。
歴史は権力者に都合のいいように変えられていきます。
実際はそうではなかった、ということを皆さんにご理解いただきたいのです。
(過去ログの「その1~その4」をご覧ください。)

瀬戸内海の村上水軍は、中世における日本の代表的海軍でありました。
ただ、制海権があまりにも強大であったため、海賊禁止令と鎖国により、
徹底的にイメージを変えられ、歴史から抹殺されてしまいました。
正しい歴史を知っていただき、認識を深めていただければ幸いです。

水軍の伝統と精神を受け継ぎ、これからも頑張っていきます。

by fukura51 | 2008-01-08 16:37 | 村上水軍を語る